wirknichtvoraus

August 6, 2009 at 12:55pm
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私にとっての倫理とは、まずなによりも、「美」や「実感」に最大の価値を見いださないための、思考の拘束具です。

どのような意味でも、「美」は倫理の基準にはなりえません。たとえば、リーフェンシュタールの写真集『ヌバ』は安心して褒められますが、彼女が監督したベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア』については、多くの人が複雑な表情で黙り込むでしょう。ほとんど同質の美が描かれているにもかかわらず、です。

あるいは、爆発四散するスペースシャトル・チャレンジャーや炎上崩壊するWTC(ワールド・トレード・センター)にある種の崇高美を感じずにすますには、ほとんど洗脳に近い倫理的トレーニングで認知を歪めておく必要があるでしょう。しかし、たとえば後者をうっかり「宇宙全体で想像しうる最大の芸術作品」と素直すぎる発言をしてしまった音楽家シュトックハウゼンがどんなめにあったかは、すでにご存じのとおりです。

美的判断は倫理とは無関係である。それゆえ、美は価値判断には結びつかない。クオリアも同様です。おそらく、「美のクオリア」はありえても、「倫理のクオリア」は存在しない。なぜなら、倫理性とは、否定と懐疑からしか導かれ得ないからです。それゆえ、倫理を純粋な肯定的質感のもとで「味わう」ことなどできません。また、そうでなければ、倫理など信頼に値しません。実感と経験に抗して超越論的に作用するもの、それが倫理です。あらかじめ存在する上位概念は超越的ですが、その都度、事後的に生成する超越性については、超越論的であると私は言います。

— 斎藤環から茂木健一郎への手紙